2005.8.28.の説教より
.「 私の思いと神の思い 」
マタイによる福音書 26章36−46節
このところは、十字架上の死を前にされたイエス様が、39節ですが、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られた時のことが記されている、いわゆるゲッセマネの祈りが記されている聖書の箇所ですが、このところを読むたびに、おそらくは、誰もが疑問に思われるのは、どうして、イエス様のようなお方が、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたのか、ということではないでしょうか。なんと言いましても、イエス様は神の御子ですし、この福音書の16章21節ですが、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」とありますように、たとえ、十字架につけられたとしても、三日目に復活できることは、十二分にご存じであったと考えられるからです。ちなみに、このマタイによる福音書を見ただけでも、この他にも、17章23節と20章19節となりますが、十字架につけられた後、三日目に復活されることがイエス様によって語られていますので、三日目に復活されることは、イエス様にとっては当然のこと、自明のこととだったからです。それにもかかわらず、どうして、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたのでしょうか。平たく言えば、どうして十字架上で死ななくても良いように、済むようにと祈られたのかということです。復活されることが分かっておられるなら、一時、我慢すれば済むことだったのではないかと考えられるからです。一時、我慢すれば済むのであれば、私たちでも、勇気さえあれば十字架上で死ぬこともできるかもしれません。それにもかかわらず、神の御子であるイエス様が、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたのは、どうしてなのか、ということを考えてみますとき、考えられることとしては、何一つ罪を犯されなかった方が、すべての人のためとは言え、罪の罰を一身に受けられて、神様からまったく捨てられた者とならなければならなかったからではないかと考えられるわけです。それも、私たち以上に、それこそ比べものにならないほどに神様としっかりと結びついておられたイエス様が、罪の罰を一身に受けられて、神様からまったく捨てられた者となるということは、耐え難いことだったからかもしれません。しかし、私たちには、イエス様の胸の内を知ることは、とうていできうることではありませんので、本当のところのことはわかりませんが、どういう理由があるにしてもハッキリしているのは、イエス様でも、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたということです。
おそらく、私たちとしては、こういうことも考えるのではないでしょうか。イエス様のように、立派なお方であるならば、謙遜な信仰によって、それこそ、自分の思いというものをまったく出さないようにして、神様が定められたことを為されることも、受け入れられることもできたのではないか、ということです。そのようなことを考えてしまうのは、「できることなら、避けたい。」「できることなら、そのような目に遭わないで済ませたい。」というのは、信仰的には、まだまだ未熟と考えてしまうところがあるからなのかもしれません。たとえどのようなことでも、「御心のままに」と受け入れることこそが、理想的なあり方と考えているからかもしれません。それはそれで立派なあり方と言えるかもしれませんが、はたして、そういうあり方を求めることが本当に良いのでしょうか。
もっと、ありのままの思いを神様に向けることのほうが、向けるというよりはぶつけるほうが良いのではないかとさえ、私などは思っております。たとえば、旧約聖書の詩編の信仰者たちの言葉を思い起こしていただければと思うのですが、たとえ、どのような状況の中におかれることがあっても、どのような困難に直面することがあっても、ただただそれを黙って受け入れますというようなことを言っている者はいないからです。詩編の最初のほうの詩編の第2編を見ていただきますと、このような言葉で語り始められています。「2:1
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。2:2
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。2:3
『我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう』と。」「なにゆえ、なにゆえ」とです。私たちの言い方で言いますと、「どうして、どうして」、「なぜ、なぜ」ということです。それは、極めて困難なことに、不本意なことに直面したときに、私たちがその心に抱くことになるきわめて自然な感情ではないでしょうか。そのように、私たちが心に抱く自然な感情を、まず詩編の信仰者たちもまず口にしているのです。神様に、その感情をぶつけていると言っても良いかもしれません。それが、聖書において見ることができる多くの信仰者たちのあり方なわけです。私たちが期待するような、どのような状況の中におかれることがあっても、どのような困難に直面することがあっても、ただただそれを黙って受け入れて行くような謙遜さなど、どこにもないわけです。そうしたことを考えますとき、私たちとって問題なのは、私たちがどういう訳か理想としている、いわゆる謙遜さよりも、たとえ、「どうして、どうして」、「なぜ、なぜ」との思いを抱きながらであっても、場合によっては、その思いゆえの疑問や不満を、神様にぶつけることがあっても、どこまでも神様のほうに心を向けているか、ということではないかと考えられるのです。逆に言えば、たとえ謙遜そうに振る舞っていたとしても、神様のほうに心をほんとうの意味で向けていなかったならば、ダメだということです。
先日、キリスト教系の病院において、病人のカウンセリングをされておられる先生のお話を聞く機会がありましたが、その話の中で、こんなことを言っておられました。「ともすると私たちは、理想としている信仰者としてのあり方を、ほんとうに悩み苦しんでいる方にまで押しつけて、苦しみに苦しみを加えるようなことをしてはいないだろうか、生活習慣から病気になるような原因がある程度ハッキリしているものならば、ある程度、それは不節制を続けたからということで、納得も諦めもつくものとなるかもしれないが、健康のことには気をつけてきたのにもかかわらず、節制してきたにもかかわらず、思いもかけないような病気にかかってしまうような、言うなれば、自分の中に原因を見いだすことができないような場合というのは、そうそう簡単には、その現実を受け入れることなどできないのではないか、最後まで、受け入れることができず、周りの人たちに、そのやり切れない感情をぶつけることもあるのではないか。また、愛する家族が、同じように、思いがけないかたちで亡くなってしまったような場合も、同様の思いを抱くことがあるのではないでしょうか。」といったことを言っておられました。実際、その先生の奥様も、自ら命を断たれて、亡くなってしまったのだそうですが、その後、10年間は、そのことの痛みを引きずりながらということになってしまったということです。そう簡単には、痛みは消えなかったわけです。それが私たちの多くの場合の現実ではないでしょうか。人に相談しても、話しても、さらには、神様に祈っても、そう簡単には、心の整理がつかない、現実を受け入れることができないことがあるわけです。その意味では、信仰を持っているからと言って、いかにも信仰を持っている者らしく振る舞えるときと、振る舞えないときが、私たちの現実としてはあるわけです。その他の面においても、私たちは、弱さというよりは、無様さをさらけ出してしまうことがあるのではないでしょうか。また、そうした弱さをさらけ出してしまうことがあっても良いのではないかと思われるのです。イエス様が十字架を前にされて、「できることなら、避けたい。」「できることなら、そのような目に遭わないで済ませたい。」と祈られたというのは、まさに、そうした弱さを持つ私たちの一人として、一人になられて私たちの罪をその肩に担っておられたゆえなのかもしれません。
まったく私たちと同じ弱さを持つものとなられたということのあらわれと言うこともできるかもしれません。私たちは、人の弱さを本当の意味で分かることはできませんが、私たちの弱さを分かるところまで、ご自身を低くされることができるところに、イエス様の、神の御子たる所以があるのかもしれません。力強さよりもです。
最後に、一言付け加えておきたいと思いますが、私たちの弱さをあるがままに受け止めてくださるのが、私たちにとっての神様だとの信仰を持っていてこそ、たやすくは受け止めることができない現実をも、やがては受け止めることができるようになる道を持てるようになるかも決まるという現実もあるということです。なかなか日本においては、そういうあるがままを受け入れてくださる神様への信仰をもっておられる方が少ないことから、最後の最後まで、たやすくは受け止めることができない現実を受け止められないままになってしまうことも多いということです。